オデュッセイアの力強さ

オデュッセイアのことは、もちろん知っていた。言わずと知れた古典の名作だ。西洋文化をキックスタートさせた古代ギリシャの長編叙事詩。でも読んだことはなくて、ずっと読まなくちゃ、読まなくちゃ、と思ったまま手が出せないでいた。

怖くて手が出せなかった古典をついに読み始められたのは、新訳が出版されて、その評判がめちゃくちゃ良かったからだ。新聞や本屋、果ては古典専攻の知り合いのフェースブックの投稿にまで、その本は登場した。そして、表紙のデザインがおしゃれで素敵だった。

新訳は、イギリス人の研究者エミリー・ウィルソンによるもの。女性によるオデュッセイアの英語翻訳はこれが史上初だという。読みやすいという評判だったので、これなら私でも読めるかもしれないと思い、Kindleで買って一気に読んだ。

イリアスとオデュッセイアは古代ギリシャの詩人ホメロスによる長編叙事詩だ。二つはセットになっている。イリアスは、トロイア戦争のお話。オデュッセイアは、トロイア戦争が終わったあと、英雄オデュッセウスが家へ帰るお話。

オデュッセイアの話の筋は簡単だ。英雄オデュッセウスは戦争後の帰路のあちこちで誘惑や困難に道を阻まれ、なかなか妻ペネロペイアと息子テレマキウスが待つ家にたどり着けない。だが彼は持ち前の知恵と腕力でそれらの困難を乗り越え、長年の月日を経てついに故郷にたどり着く。妻はオデュッセウスが死んだものと思っている村の男たちから毎日言い寄られているが、彼らを断り続けて最愛の夫の帰りを待っている。なんとか家に帰ったオデュッセウスはそれらの求婚者たちをやっつける。

読み始めて驚いたのは、え?こんなスピードで?というくらいにスイスイと読めることだった。叙事詩だけに章ごとの区切りは短く、エピソードが連なる形で物語は進んでいく。人間がその歌声を耳にしたら死んでしまうという人魚との遭遇や、女神に気に入られて七年も彼女の洞窟にとらわれる話など、一個一個のエピソードが一話完結型になっている。ディズニーシーでシンドバッドの冒険のライドに乗ったことがある人はいるだろうか。あのライドではシンドバッドの冒険の物語のシーンを再現した部屋を一つ一つ進んでいって、それらのシーンをまとめて一つの物語を経験する形になっている。というか、オデュッセイアという古典がシンドバッドの冒険などの後々の冒険談のベースになっているからこそ、そういうセットアップになっているのだ。

 

訳は、評判通りに読みやすく、美しく、力強かった。私はギリシャ古典のことを全く知らないし、他の訳を読んだこともないので、比べることはできないのだけれど、単体の本として読んで面白いと思った。

特に毎章うっとりさせられたのが夜明けの描写だ。元々のギリシャ語の直訳は”rosy-fingered dawn”で、それが定番フレーズとして繰り返し出てくるらしいが、ウィルソン訳では章ごとに違うフレーズになって翻訳されている。ニューヨークタイムズの書評には、こう書かれている:

“Rosy-fingered dawn, in this new version, takes on many minor variations. “When early Dawn revealed her rose-red hands.” “The early Dawn was born; her fingers bloomed.” My favorite rendering is “Soon Dawn appeared and touched the sky with roses.” It is so wonderfully delicate. It evokes, beautifully, the sky’s subtle changes at first light: how the colors phase in mildly, almost imperceptibly, the way a piece of white paper might blush if you rubbed it with a flower. And it is a perfect example of creative translation.”

(「薔薇色の指をした暁の女神は、この新訳では様々なバリエーションになって現れる。「暁の女神が薔薇色の手を見せたとき」「暁の女神は生まれ、彼女の指は咲き誇った」など。私のお気に入りは「すぐに暁の女神が現れ、薔薇で空にふれた」だ。素晴らしく繊細だ。夜明けの最初の光による、空の微妙な変化を美しく思い起こさせる。まるで花でこすった白い紙の色がほんのりと変わるように、ほとんど目に見えないほどゆっくりと色が変わる様子を描いている。創造的な翻訳の完璧な例だ。」)

 

ウィルソンは、原文では一定のフレーズを、それが登場するシーンごとに微妙に違うニュアンスの英語に翻訳した。それによって、定番フレーズが毎回新鮮さを持って一日の幕開けを告げる。

翻訳は非常に特殊なスキルを要求する仕事だと思う。私は学生時代に翻訳のバイトをしたり仕事で翻訳をした経験が少しあるのだけど、やっぱり資格があるプロではないから、単語一つとっても翻訳はとても難しい。バイリンガルならゴリゴリに押して意味がまあまあ通じるようなストリート翻訳はできるけど、きちんと言葉と向き合って作品の翻訳をするのはそれとは全く違うのだ。ある言語で書かれたものを、人間の頭の中で違う言語に置き換えて、文章の形で出力するということは、一方でほぼゼロから新しい何かを書き始めているのに近いけれど、もう一方で、オリジナルをそのまま再現している作業ともいえる。ゼロからの創作と、完全コピーの間に位置する翻訳。しかもオデュッセイアは古代ギリシャという見ることも行くこともできない世界の作品なのだ。

エミリー・ウィルソンは古代ギリシャ語を翻訳するとはどういうことなのか、どんなプロセスを経たのか、ということを、ニューヨークタイムズでのインタビューで語っている。ここでは原文の “polytropos” という単語を例にとって、同じ単語ひとつとっても、翻訳者ごとに全く違う訳になるんだということを見せている。

翻訳がパーソナルなものであるからこそ、こういうインタビュー記事などではやはり、彼女が女性であることがこの訳にどのように影響しているのか、ということがトピックの一つになる。彼女がオデュッセイアを英語に翻訳した初めての女性だということは、多くの記事でのメインフォーカスになっている。すごく複雑なトピックだと思う。この新訳に女性ならではのオデュッセイアの読み取り方を見出そうとするレビューや、女性の奴隷を処刑するシーンの言葉の選び方にこれまでの訳とは違う視点を加えていると論じる評論など、そもそものギリシャ語のテキストを翻訳する際に入ってくるウィルソンの解釈をさらに読者が解釈するような形になり、何層にも読み取り方が重なっていく。

ウィルソン自身はニューヨークタイムズのインタビューでこう言っている。

“I do think that gender matters,” Wilson said later, “and I’m not going to not say it’s something I’m grappling with.”

(「ジェンダーは大事だとは思う。それについて考えていないとは言わない。」)

 

でもまあ多くのレビューは彼女の翻訳の素晴らしさをシンプルに賞賛している。彼女が女性だからどうとかこうとか難癖をつけるようなものはあまり見当たらなかった(少しはあったけど)。私が読んだ限りでは、この新訳は、ここ数世紀の間に積み重なってきた翻訳に次ぐ翻訳による重みを一旦取っ払って、原典に戻ってそこから新しいオデュッセイアを立ち上げた新鮮なものであったらしい。

「らしい」というのは、私は実際に読む前に、こんなことは一切知らなかったし、他の翻訳を読んだこともなかったからだ。知っていたのはオデュッセイアが古典で、多分読んでおいたほうが良くて、新訳が最近出て、その評判がいいということだけ。そしてその状態でオデュッセイアを読んで一番感じたのは、物語の力強さだった。なんというか、有無を言わせない強さでグイグイ先に進んでいくのだ。これはやっぱり近現代の、人間の内面の問題や考えていることをじっくり見ていくような小説とは全然違っていて、そこに叙事詩と小説の違いがあるんだなーと改めて思ったりした。英雄オデュッセウスの内面描写は、ほぼ、ない。彼はどんな場面でも焦ったり自信を失ったり「もう帰るの諦めようかな」なんて悩んだりしないのだ。いつでも自信満々で、「俺は英雄で、俺にかなう奴なんていない」「絶対に家に帰る」「俺の力と賢さをもってすれば倒せない敵はない」という、強気モード一択で進んでいく。

(書いていて気づいたけど、これは源氏物語の源氏にも通じるところがある。源氏にも「俺はすごい」「俺は美しい」「俺はモテてモテて困る」感がずっとある。やはり恋物語だけにちょっとは悩んだりするけど、なんとなくこの自信が揺るがない感じが、これらのヒーロー二人は似ている。むしろ源氏物語において本当に悩んだり嫉妬したり苦しんだりするのは女性の方なのだ。好き勝手やってる源氏に対し、彼の恋人たちは自らのプライドや社会的地位や老いゆく自分の将来や人間関係について思いつめる。ここに源氏物語が世界最古の小説といわれる所以があるのかもしれない。)

これだけ書くとなんか登場人物の奥行きがなくてつまんなそうな話っぽくなるけれど、これがやっぱり名作の力で、エピソード毎にぐいぐい読めちゃうのだ。

物語って不思議なものだ。何世紀も前の話なのに、こんな風にぐんぐん読めちゃうということは、どうも人間の奥深くは物語に反応するようにできているんじゃないかなと思う。小説でもなんにしても。だから忙しくてしばらく本を読んでいなかったり、難しそうな作品でもすっと入り込めるのだ。多分。人間だから。